昭和四十七年六月十一日 朝の御理解
X御理解 第三節 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず         神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方         角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる         この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理         解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神         ありての氏子、上下立つようにいたす。」
 大変問題になる御理解です、この御理解は実は御裁伝という事でございますから、教祖様のお考えというものは、全然入ってない。神様から直伝のこれは御教えです。 いわゆる教祖様の御信心を、又、神様から頂かれると言う事を、そして御自身の信仰を参考にお話くださってあるのが御理解です。
 もう、これは天地の親神様が教祖を通して、いわゆる天地金乃神直伝の御教え、大変これは難しいんですねえ。難しく説かれております。とりわけ天地金乃神と申す事は天地の間に氏子居っておかげを知らずというところは、大変難しい。
 昨日私、ここのところを、天地金乃神と申す事はというところを後からにして、天地の間に氏子居っておかげを知らずというと、ややこしくないような気がいたします はじめに天地金乃神と申す事はとあるので、大変ここは難しくなってくるんですね それで天地の間にあって人間氏子が、いわゆる天地の恵みを受けておりながら、そのお恵みをお恵みとも知らないとこういう訳なんです。だから天地金乃神と申す事はそういう人間氏子のわかってないところ、又は考え違いをしているところ、いわば難儀の元になっておるところ、そこでここのところの互い違いになっておるところをです、神仏の宮寺、氏子の家屋敷皆神の地所、その理由知らず日柄方位ばかり見て、無礼致し、前々の巡り合わせで難を受けておると。
 この無礼をしておるという事がです、前々の巡り合わせで難儀という事になっておる。ですからここんところを、皆さんがわかり信心させて頂かねばならない。ここには、只、神仏の宮寺、氏子の家屋敷皆神の地所というふうにおっしゃっておられますけれども、ここんところは、いわゆる人間があれは何々様のお屋敷、ここは何々というお寺さんの境内。自分の家屋敷でも、自分のもののように思うておるというようなその思い方が、根本的に違うんだという事。
 ですからこれは家宅とか、地所という事だけではありません。次ぎに、日柄方位ばかり見てという事なんか、もう全然人間がいうならば、でたらめな事を人間が決めてそして自分で自分の住む世界というものう狭くしてしまっておる。
 窮屈な、例えば、今日は何の日だから、どういう事はしてはいけないといったような、例えば、そういう事はもういかにその事が神様に無礼致しとおっしゃっておられる。御無礼になっておるかという事がわかります。
 天地の中に、天地の親神様のお恵みの欠げておるところは指一本で押すしこもないそれは清いところも汚きところもみんな天地金乃神様のお守りを頂いておる。そこにです、そこがよいの悪いの、何日の日がいいの、悪いのというような考え方がね、もう全然間違った考え方をしておるという事。それを良いとか悪いとか言うその事が無礼だとこう言っておられる。天地に対する無礼、その無礼が氏子の難儀の元になっておるのだと教えられておられる。
 だから天地金乃神と申す事は、この何故天地乃神と言わずに、天地金乃神とおっしゃっておられるかという事、これは天地金乃神という事は、金というのは、私は、金光大神を指しておられるのではなかろうかと思うですね。
 只、天地乃神と申す事ははおっしゃてない。天地金乃神という事は最後にあります今般金光大神を差し向けとおっしゃる。金光大神を差し向けてその間違った考え方をなおさせて頂いて、御無礼のない毎日を過ごさせて頂いて、難儀の元、いうならめぐりの元を絶ってしまう程しの素晴らしい事なんです。
 ですから日柄方位を見るとかね、金光様の信心しよっても、昔から言うてきた事じゃから、只見るだけじゃからと言うけれども、只、その見るだけが大変な御無礼になるという事です。しかもこれは、由々しい事でしょうが。そういう事が神に無礼致しとおっしゃっておられる。そういう事が前々から重なりに重なっておるという事。
 前々の巡りと言う事は、前々の巡り合わせでと。もう昔から、私共のず-っと先祖の昔から、そういうような時代以後のそんなら、私共人間という者はです、そういう事を言うたりしてきたりしておるという事は、もう難儀の元になっておると。
 そこで、そういう事をわからせる為に、いわば天地金乃神と申す事はと、おっしゃっておられるように今日は感じます。もうここは、大変難しい。大変教学的に説かれておるところですけれどもね、今日、私はここのところを、天地金乃神と申す事はという事が、はじめに言うと、いよいよわからんようになるから、今日は次ぎの、天地の間に住む人間は、というところからはじめました。
 天地の間に住む人間、天地の間にある人間、人間だけじゃありませんよね。生きとし生ける者、皆んなが天地の御恩恵を受けておる。それにそんなら人間だけがですねいわゆる氏子の家宅でも神社仏閣のお地所のようなところでも、いわゆる神の地所だと、そういう事を知らずに、天地の間に住む人間、天地の恵みの中にありながら、そういういうならば、違った思い込みをしておるという事がです、いうならば人のものを自分のものと思っておるような思い込みがあってよかろうはずがありません。
 人のものを自分のものと思うておる。今朝私は、「荷物だは行くよに馬はかやのかげ」という、これは俳句ですが、私が御心眼に頂くのは、人間が乗っておるのです馬に、そして、成程山道の低い両方は藪がこうある訳です。中を馬が通っておる事はわからないけれど、人間が行っておるように見える訳です。
 俳句の方は、荷物を馬に乗せてあるのですよね、それを馬方が引いてる訳ですけれども、丁度藪の間に荷物がけが少し見えとるから、丁度荷物がけが行っておるように見えておる訳なんです。それを私は、その句を頂いて、御心眼にはね、人間が乗って行きよる、それで馬がかやのかげで見えないものですから、人間だけが行っておるように見えておるという訳なんです。
 そしてこの御理解三節を頂いて、これは一体どういうようなつなぎになっておるであろうかと思いました。けれども、段々こうして皆さんにお話を聞いて頂いておるうちに、ははあ、ここんところが根本だなあ。今日皆さんにわかってもらわにゃならんのは、ここのところなのだなあという事なんです。
 荷物だけ行くよに馬はかやのかげ、そのかやのかげになっとりますから、その馬がわかってない。私共がね、自分で生きておるように思うておるという事なんです。
 それが丁度人間が行っておるように見える訳なんです。人間が自分の力で行っておるように見える訳なんです。肝心なところは、実は馬が運んでおるのですけれども、その馬はかやのかげでわかってない訳なんです。だから天地乃神様はです、天地金乃神様とこうおおせられる。いわゆる金光大神を差し向けて、そういう大事な事を、一番大事な事、私が生きて、私がして、私のものと、そういう考え方をわからせよう捨てさせようとなさっておられる。いわゆる馬のおかげでという事をわかっていない。 人間があのやぶの中を、ず-っと歩いて行きよるように見えるんです。成程、あの人は一生懸命健康で、一生懸命働きなさるから、成程、家も繁盛する、家庭も円満、自分の治め方がよいから、家の中が円満にいっとるようにある。自分が一生懸命働くから儲け出したように思う。これは自分が作ったお野菜のように思う。自分が作った着物のように思う。そしてそれは私のものだというような思い方はね、丁度荷物だけ行くよに馬はかやのかげという事。人間だけ行くように馬はかやのかげという事になりますよね。いや、側で実際にこうやって見てたところがそうじゃなかった。これだけの荷物、これだけの人間が、こういう難しいところを通っておるのに、やはり、馬に乗っておるだけなんだ。けれども、その肝心の馬のところがわからない。
 人間は只、働いておるだけなのだ。実際はその働きの根本というものは、天地乃神様の働きを、頂かなければ出来る事ではない。
 確かに、この御理解第三節は、お道の信心の根本になるような感じですね。まずそこがわかるという事。天地の間に居って氏子おかげを知らずとおっしゃる。
 私共はそれを今まで知らなかった。けれども、今般金光大神を差し向けとこうおっしゃっておられる。しかも金光大神を差し向けて願う氏子におかげを授け、いわゆる私共のいうならば、わからない程度の低い考え方でです、只、いうならば自分の我情我欲ばかりを言うて、その我情我欲を充たして貰いたいという願いが、御理解という事になって、どうぞああして下さい、こうして下さいという事になって、だから、それでいい、そんなら願う氏子におかげを授けながら理解申して聞かせと次ぎにおっしゃっておられる。
 だから、その理解申して聞かせて貰うたら、そこがわからなければいけない。お父さんとお母さんが私は作りんなさったのじゃぁない。作らされてその元のところを、神様のおかげという事を知らない。神様のおかげで、この世に出て来ておるんだ。神様のおかげで手足が動いておるんだ。働かせて頂いておるんだという事。
 一切が天地の親神様のおかげの中にあるんだという事。そこで起きてくる一切も神様のおかげの中にあるんだとわからせて貰う。段々わかってくるでしょう。何故御事柄といわなければならないかという事もわかってくる。今日もお生かしのおかげを頂いて、有難い。
 今日はそうにゃ、がまがでたと言うて、威張る事も何もいらん。そういう考え方がね、神様へ無礼になってそれが、たび重なるに従って、前々のめぐりで難を受けるという難の元を形成していく、作っていく、自分で。
 今日も本当にお引回し頂いて、神様のおかげで働かして頂いた。働く事を許された もう、あるものは、そこには御礼だけしかない事になる訳です。いうなら人間の根本的な考え違いで、それがかやの影になっとりますから、馬が一生懸命、山坂やらを登っておる事やらは、ひとっつもわかっとらん。ちょっと見ると人間が行っておるかのように見える。馬に乗せられておるからこそ、神様のいわば御守護の中にあるからこそ、という事がわかってくる。これが金光様の御信心の根本的な考え方であると同時に、その思い込みというものが出来て、それから、一切の御教えが頂けてると、いよいよ有難い事になってくると思うですね。
 今般生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせて頂いておる訳なんです。そこで、そこから、どういう事が神様が願われておるかというと末々繁盛致す事、氏子ありての神、神ありての氏子と。末々これから繁盛して行かなければならない。その繁盛はいうならば、神も助かり氏子も立ち行くという、神ありての氏子、氏子ありての神、上下立つように致す。神様と氏子とか一緒に助かり合うていくという世界が、そこから、顕現されてくる訳であります。
 末々繁盛致すという事は、只親の代より子の代、日勝り月勝りに只おかげを頂いて行くという事だけではない。それはどこまでも、上下立つようにという事になっておらなければ、本当の繁盛という事にはならない事になります。そこがわかりますね。 ここも金光様の御信心の助かりの理念とでも申しましょうかねえ。只、金光様の信心しよるけんで、どんどん繁盛しよる、一家円満であるというだけではけいないという事。それがそのまま、上下立つように致すとおっしゃる事に、つながっておらなければならない。
 例えば大坪一家の繁盛があるならば、それはそのまま、天地金乃神様の繁盛につながっておらなければならないという事。だから、それこそ上下立つようになる。
 私が働いて、私が家を建てる。こういう根本的な考え方がスッキリ致しますと、一切のおかげが非常に自然に入ってくるように思います。
 昨日午後の奉仕をしとりましたら、高芝さんのところの二番目の息子達夫婦と、そこの淑子さんと三人でお礼参拝してし見えた。まあ、いろいろとお話をする中に、ああた方のお父さんの信心がどうこうという訳じゃないけれども、それは人間じゃからいろいろ欠点もあるけれども、これだけはお父さんの生き方を学ばなければならないという事があるという事。これだけはお父さんの生き方が、あんた方は素晴らしかという事は、高芝さんという人は、もう本当に不思議な位に子供に求めないですねこれだけは私は感心しとるです。
 例えば、田主丸におられた時分に、いわゆる自分も税務署の方をやめられました。 そしてまあ、退職金が相当出ましたから、それで家を求められたり、それからお商売もいろいろなさったり、そういうような中にでも、子供達が言う事、する事にひとっつも、そげなこつじゃいけんじゃないかかという事を言われなかったですね。
 お母さんが方はですね、そうじゃない。けれども高芝さんは、これともう、俺は今までお前達を育ててきたのは、お前達にみてもらいたいばっかりに、育ててきたつぞといったような、雰囲気を全然見せなかったです。
 例えば、長男夫婦がお世話になるだけなって出て行くというなら、それも神様にお願いして親先生にお許しを頂くなら行ってもよいぞという事であったし、もうそしてちっとでん加勢してくれんかという事がこれから先もなかったです。自分の金は使うてしもうたっちゃそうでした。これはほんに感心と私も思いよった。
 だからその感心したところを、私は昨日子供達に言うのてですよ。そしたら今度は息子達の嫁が話し合ってですね、昨日なんか、父の日に子供達がいろいろなものを買ってきてプレゼントする、ワイシャツを買うてきたり、いろんなものを買ってきて、お父さんにあげる。そういう話を子供達がしとりますと、昨日、一昨日みえてからそれこそ、大変感激してからお礼を言うておられました。
 ですから、全然子供達に条件をつけないし、求めないですから、そういう話があっただけで、高芝さんは大変喜んでおる訳なんです。
 それは子供じゃけん、そん位のこつ、そうにゃしてやっとるけんで、するとが当たり前というのがさらさらない。それで昨日、それが子供達でしたらしいのです。
 ですからその求めてない者が、与えられるのですから、成程、人一倍嬉しいのであり、有難いという事になった。ときには、いっちょワイシャツの一枚どん買うてきてくれんかというものがさらさらないのですよ。
 これは私は、高芝さんの素晴らしいところだと思いますよねえ。やっぱ永年の信心で、もう人には知りませんけれども、子供には絶対求めない。そこに与えられるからそれが有難いという事になる。
 私共がね、今日の御理解で頂きますとです、自分のものといったような考え方が全然ないところにです、家が与えられ、地所が与えられ、いろんな物が与えられるのですから、それが有難いという思いがいよいよ募ってくる。
 昨日丁度、高芝さんところの子供達が参って来た時にまあだ墨がかわかんという時に、丁度来ましたから、それを御神米に書いてやりました。「求布苦得」(ぐふくとく)と。これはお釈迦様の、いわゆる思索から生まれたもの、いわゆる四苦八苦、人間の苦しみは八つあるんだ。どうにも出来ない苦しみというのが。例えば会別離苦とか、死の苦しみとかいったような、病気の苦しみとかいろいろある訳です。はじめは四つの苦しみであったのに、又それに四つ加えたのがこの求布苦得という事だそうです。求めるものが与えられない苦しみという事。求めておるけれども、それが与えられない苦しみを、求布苦得というのだそうです。
 そこで、あんたんとこのお父さんは求めるもの捨てておるから、いつも楽です。子供に対してだけは、求めないから楽です。いわゆる求めておるから求布苦得なのである。求めても与えられない歯がゆい思いをする。腹が立つという事になるけれども、求めるものを捨てきってしまっておるれば楽でしょうが。
 そこで願う氏子におかげを授けとおっしゃる。私共が求めて神様に願う。金光様の御信心の素晴らしいところはね、ここだと思うんですよ。求めればそこに、お繰り合わせが頂けれるという事。願う氏子におかげを授け、願えばおかげを授けて下さるという事。けれどもそれではこの求布苦得という苦しみはつきないから、理解申して聞かせて、いわゆる根本的な人間の生かされて生きておるという事、いうならば人間の知恵やら力やらで私共がこの世に生を受けておるのではない。神様のおかげで、いうならば生きておるのだと。
 荷物だけ行くよに馬はかやのかげであって、荷物だけ行っておるように見えておるけれども、実際は馬が運んでおるのだ。人間だけが行っておるように見えておるけれども、実際は人間の力じゃないのだ。馬が乗せておるから行っておるんだというようなところが理解申して聞かせでわからせて貰うところから、私の物は何ひとつとてない。皆んなが神様の御物であり、神様が下さるものだという頂き方からです、今日、例えば生かされておる。これを頂いておるというだけでもいうなら、有難いという事になる。
 お釈迦様はこれを人間のどうしても、離れる事の出来ない苦しみとなさっておられるけれども、金光様の御信心は実をいうと、例ええば、会別離苦の苦しみとか、死ぬる苦しみとか病気の苦しみとかいう事でも、金光教では、それがよくよくわかれば、肉眼を置いて心眼を開けば、それもおかげとわかるんですね。金光教の信心は、例えば、死ぬる事も又、有難いという事がわかる。
 求めるものが求めても与えられない苦しみではなくて、だからこちらは、求めるものを捨ててしまう、そこに楽な心が生まれてくる。楽な心にはおかげがあるぞと教祖はおっしゃっておられます。
 だからどうしても、楽な心に与えられるものは、私共の思い以上、願い以上のおかげが受けられるというのが金光様の御信心であり、教祖金光大神が御自身体験してみえられた事であり、又、その教えを本気で頂かせてもろうて、そんならこれは私共の場合でも同じ事。私自身がおかげを頂いて、皆さんにこうやって聞いて頂いておる訳でございます。
 今日はまあ、大変難しいこの御理解三節をね、荷物だけ行くよに馬はかやのかげという事から、人間が知恵やら力やら、分別で私共が生きておるのではない、神様のおかげで生きておるんだという根本的なところをわからせて頂くところから、この御理解がはっきり、だんだんしてくるように思います。
 金光様の御信心はそこのところをわからせて頂くだけじゃなしに、そうだと思い込ませて頂くところから、いうなら我情もなくなって我欲もなくなってわが身は神徳の中に生かされてありというような有難い事までわかってくる。わかってくるから、昨日の御理解じゃないですけれども、勿体ないという心を満ち足りた心だと。
 お互いが勿体ない、勿体もいというて、不平不足を言うたり思うたりしとるとするなら、その勿体ないというのは、有難いという事ではあろうけれども、勿体ないという事ではない。勿体ないというのは、私のような者に神様はかくまでおかげを下さってとお礼をいう心です。勿体ないという心は、だから満ち足りたものです。そういう満ち足りたおかげが頂けれる根本になるところの教えを、今日は聞いて頂いた訳ですね。どうぞ。